第2回 強軍に挑む米良四郎右衛門

 時は1577年。長年日向の国を治めてきた伊東氏がえびの市での戦いにおいて島津軍に破れ、一族ともども豊後(大分県)に落ち延びた。
 伊東氏の命を受けて100年の間、門川を治めてきた米良氏は当時延岡市に伊東氏と対立のあった土持氏が控えていたのでえびのでの戦いに参加することもできずに島津領に併合されてしまう。
 元来、忠義に厚い米良氏と日向市の右松氏はともに長男を島津氏に人質として取られてしまった。
 このまま島津領最北の砦として門川を守っていくのか?それとも大分に落ち延びた伊東氏を大分の領主大友宗麟の力を借りて豊後最南の前線基地として島津氏に反乱を企て、伊東氏再興を計るのか?
 しかし、門川城にこもる米良四郎右衛門には確固たる信念があった!

 ダンダダンダダンダンダーン♪ダンダダンダダンダンダーン♪風の中のすうばる〜♪(地上の星のつもり、笑)

 九州をぐるりと車で回ったことのある方にはお分りだとは思うが、宮崎県と大分県の間には宗太郎峠という峻険な山々が連なる長い峠がある。この峠の存在により、ここ宮崎県北ではいかに戦国の世とはいえあまり大分県方との戦乱はない。むしろ日向のどん詰まりなのである。伊東氏領の時代の県北は延岡市に土持氏があり、門川を前線基地としながらも南の島津氏とのかねあいもあり、延岡を攻め切れなかった。また、伊東氏豊後落ちのあともたびたび土持氏は門川に攻め入るが、米良氏も一歩も引かぬ戦いぶりを見せるなど勇猛な武将であったことがうかがえる。
 米良氏は門川統治100年の間に神社、仏閣の建立。祭りの奨励など領民を大切に扱ってきたようで、この時代小さい領地ながらも名君として慕われてきた様子である。

 1578年1月、島津氏に全面降伏し、島津の大軍が鹿児島に引き上げたのを見計らって、同年2月には大友軍を門川城に入城させ、島津への反乱を宣言。延岡の土持氏を大友軍の大軍とともに一気に攻め落とすと、南へ南へと島津征伐に向かう米良四郎右衛門。その胸には伊東家再興の願いよりも息子弥八郎への煮えたぎるような熱い思いがあった。
 子息弥八郎は人質として桜島に幽閉されていたが、門川の反乱を聞き、その日の夜半に同じ人質となっていた日向の右松氏の子息とともに6人の門番を切り殺し、船を奪って海路6日間。やっとの思いで佐土原に着いた。そこで信用できる知り合いの家に一晩の宿を求めるが、その家の主人によって島津へと密告され、再び捕らえられ処刑されていたのだ。
 旧伊東藩の人間により息子を殺された四郎右衛門の心情は察するにあまりあるところである。
 (しかし、この当時伊東再興を心より願っていたのは日向の右松氏、門川、塩見のともに米良氏の3氏くらいで、あとの宮崎武将たちはほとほと伊東氏には愛想が尽きていたようだ。この伊東氏(伊東義祐)の求心力のなさがこの戦いにおいてすでに命運を分けていた。)

 いったん鹿児島に引き上げていた薩摩軍主力部隊が宮崎県佐土原町に集結したのが同年11月。高城まで攻め込んでいた大友軍8万と薩摩郡4万の戦いの火蓋がついに小丸川を挟んで激突した。

 数の大友か兵法の島津か?しかしながらこの戦いはあっけなく島津の大勝にて終了。命からがら豊後に逃げ帰った大友宗麟。この日より北九州の盟主であった大友家も次第に没落してゆくことになる。
 米良四郎右衛門もこの戦いで命を落とし、米良氏の門川治世も約100年で終わりをつげたのであった。
 このとき薩摩軍の用いた戦法は「釣り野伏せ」といわれるもので、数を頼りに川を横断してくる敵兵を川岸に潜んだ兵が横から攻めるというもの。巧みな戦術といわれますが、若いころ鹿児島で学んだ拙者?(遊んではいないよ!笑)に言わせると薩摩人は今でも気迫が違うね、肥沃な大地に育った宮崎人はボーとしたのが多いけど(拙者含む、笑)厳しい大地の薩摩人は怖いよ(笑)やはり厳しい環境は強固な人間を作ると思いますね。相撲界でもあのモンゴル勢の強さときたら、日本人力士束になってもかなわんもんね!

 ところで、この散々な目にあった伊東氏ですが、義祐の子祐兵によってまた復活するところが面白い。まさにひょうたんから駒が出る祐兵の伊東家再興劇は年取ってからゆっくり書きたい(20年後?笑)

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